能登半島地震の直後に北陸に移住。活字の世界から、手触りのある街へ。滑川で見つけた「一次情報」としてのまちづくり。

富山湾に面し、神秘的なホタルイカの光で知られる滑川(なめりかわ)市。この街で、空き家バンクの運営や歴史的建造物の利活用に奔走しているのが、地域おこし協力隊の田中 啓悟(たなか けいご)さんです。大阪市内で表現者を志した24歳の青年が、なぜ「縁もゆかりもない」北陸の地に飛び込み、カメラを手に街を駆け抜けているのか。その軌跡を伺いました。


「どこでも働ける」からこそ、あえて「知らない土地」へ

編集部:大阪で22年間過ごし、専門学校ではシナリオや脚本を学ばれていたそうですね。そこから協力隊へ転身したきっかけは何だったのでしょうか。

田中さん:もともと小説を読むのが好きで、物書きの道を選びました。1年半ほどフリーランスで活動していたのですが、仕事のすべてが家の中で完結してしまうことに、次第に物足りなさを感じるようになったんです。「大阪に居続ける理由はない、どこでも働けるなら一度外へ出てみよう」と。

編集部:最初は海外進出も考えていたとか。

田中さん:そうなんです。マルタ共和国へ行こうと決めていた時期もありました。でも、「日本のこともまだ何も知らないじゃないか」と気づき、友人に教えてもらった地域おこし協力隊の制度に興味を持ちました。候補を4つほど絞った中で、唯一「一度も行ったことがない県」だったのが富山県。滑川市の担当の方とZoomで話し、2週間後には現地へ面接に行っていました。

「どこでも生きていける」という自信が、田中さんのフットワークを軽くしています。あえて未踏の地を選ぶ好奇心と、迷わず現地へ飛び込む決断力。それが、後の「滑川市一人目の協力隊」としての活動を支えることになります。


能登半島地震から2日後の移住。一人目の協力隊としての孤軍奮闘

編集部:移住されたのは2024年1月。なんと、能登半島地震が発生したわずか2日後だったそうですね。

田中さん:はい。移住日は事前に決まっていたのですが、まさに地震直後のタイミングでの到着となりました。滑川市でも震度5強を観測し、市役所の方々は不眠不休で災害対応に追われている真っ最中。滑川市で初めての協力隊ということもあり、最初の2ヶ月はほぼ「手放し」の状況でしたが、逆にそれが「自分で動くしかない」という覚悟に繋がりました。

編集部:未経験の「空き家バンク」担当として、どのように動かれたのですか。

田中さん:知識はゼロだったので、とにかく地元の不動産業者さんや街の人に話を聞きに行くことから始めました。「市役所の職員です」と自己紹介しながら、一軒一軒アポを取って街を回る毎日です。空き家情報の更新だけでなく、街の一部を通行止めにした「昭和レトロ祭り」の運営や、国の登録有形文化財を中心とした普段は公開されていない建物を公開する建築イベント、「なめりかわ建物フェス」への参画など、街の熱量を形にする仕事にのめり込んでいきました。


言葉に「視覚」の力を掛け合わせ、滑川のプレイヤーとして生きる

編集部:活動の中で、新しくカメラも始められたそうですね。

田中さん:言葉で伝える楽しさに加え、現場の空気感をより鮮明に届けるための「新しい翼」として一眼レフを手にしました。今は街のイベントや文化を記事にするだけでなく、自らシャッターを切って滑川のいまを記録に残しています。家の中で完結していた頃には得られなかった、五感で感じる「一次情報」を形にできることが、今の活動の大きな原動力です。

編集部:任期終了後のビジョンについても教えてください。

田中さん:現在は、滑川市内で民間主導の「まちづくり会社」を立ち上げる準備を仲間と進めています。自治体の仕事を受託したり、ふるさと納税の支援を行ったりと、街に寄与しながら自立した事業を作っていきたい。大阪に戻る選択肢はなく、滑川に定住するか、ここを拠点にした二拠点生活を送るつもりです。

専門学校で学んだ「シナリオ」の視点は、今、滑川という街のストーリーを紡ぐ力に変わっています。一人目の協力隊として道を切り拓いた田中さんは、すでに街に欠かせない「表現者」であり「プレイヤー」へと進化を遂げています。


編集後記

大阪の静かな部屋を飛び出した青年は、移住直後の能登半島地震という困難な局面を乗り越え、逞しく街に溶け込んでいました。田中さんがレンズ越しに見つめる滑川の未来。そこには、歴史ある建物に新しい息吹が吹き込まれ、若者が生き生きと活動する景色が広がっています。