「甲斐市はワンチーム」ラグビーひと筋だった内藤きみひろさんが、地元のために動き出した理由|山梨県甲斐市

赤坂台総合公園からの八ヶ岳

今回は、地元・甲斐市で政治活動を始めた内藤きみひろさんに話を聞いた。

内藤さんは山梨県甲斐市(旧敷島町)の生まれ。高校ラグビーの名門・日川高校、法政大学とラグビーひと筋に歩み、社会人になってからも33歳までボールを追い続けた。大学進学を機に上京し、東京で営業と管理職の経験を積んだのち、地元へのUターンを決断。そして2026年6月、勤めていた会社を退職し、地元での活動に専念することを決めた。

身長191cm。掲げる合言葉は「甲斐市はワンチーム」。ラグビーとともに歩んできた半生と、地元への思いを聞いた。

サッカー少年だった、甲斐市での日々

編集部:まずは、これまでの歩みからお聞かせください。ご出身はどちらですか。

内藤さん:生まれは山梨県甲斐市、旧敷島町というところです。高校3年までずっと甲斐市で育ちました。

編集部:どのような子ども時代を過ごされたのでしょうか。

内藤さん:小学3年生で地元のスポーツ少年団に入って、小6までサッカーをやっていました。中学に上がってからも、中1から中3までずっとサッカーでしたね。

編集部:当時のまちには、どのような思い出がありますか。

内藤さん:学校の近くにはだいたい駄菓子屋さんがあって、商店街もにぎわっていました。そういうまちの風景の中で、毎日ボールを蹴っていた記憶があります。

編集部:その頃から、体は大きかったのですか。

内藤さん:中3で185cm以上はあったと思います。今は191cmなので、そこからさらに伸びたんですけど(笑)。

駄菓子屋と商店街のあるまちで、ボールを蹴って過ごした少年時代。甲斐市での日々が、内藤さんの原点にある。

監督が2度、家まで来た。日川高校でラグビーの道へ

編集部:サッカー少年だった内藤さんが、なぜラグビーの道に進んだのでしょうか。

内藤さん:中学でサッカーをやっている姿を見て、日川高校のラグビー部が誘ってくれたんです。当時の日川は、公立高校ながらラグビーの強豪として知られていました。とりわけ身長が高かったのが、大きな理由だったみたいですね。

編集部:スカウトされての進学だったのですね。すぐに決断されたのですか。

内藤さん:それが、一度は断ったんですよ。でも監督と部長が2回、家まで来てくれて。親も交えていろいろ話をして、その熱意に応えようと決めました。

編集部:身長を見込まれてということであれば、バレーボールやバスケットボールという選択肢もあったのではないですか。

内藤さん:誘われました。身長が高い方が有利だと言われて。ただ、体育館でやる競技よりも、広いグラウンドでやる方が性に合っていたんです。もともとサッカーをやっていたというのもあると思います。

編集部:実際にラグビーを始めてみて、サッカーとの違いをどう感じましたか。

内藤さん:ラグビーはコンタクトスポーツで、言ってしまえば「ルールのある喧嘩」みたいなものなんです。思い切り体をぶつけ合えるところが大きな違いで、それが自分には非常に合っていました。当時はガリガリでヒョロヒョロだったんですけどね(笑)。

一度断った生徒のもとへ、2度足を運ぶ。その熱意が、ひとりのサッカー少年を楕円球の世界に引き込んだ。

仕事も、ラグビーも。東京で駆け抜けた営業人生

編集部:高校卒業後は、どのような道に進まれたのですか。

内藤さん:法政大学に進んで、4年間ラグビーを続けました。卒業後は大手電機メーカーに就職して、営業の仕事に就きました。

編集部:社会人になってからも、ラグビーは続けられたのですか。

内藤さん:はい、33歳まで現役でやっていました。ただ、会社のラグビーは同好会のような位置づけで、あくまで仕事がメイン。仕事が終わってから練習して、また仕事に戻ることもありましたね。

編集部:仕事と両立しながら33歳まで。並大抵の情熱ではできないことだと思います。営業の仕事では、その体格は活きましたか。

内藤さん:でっかいやつが来た、というインパクトで覚えてもらえるんですよ(笑)。営業は覚えてもらってなんぼの仕事なので、そういう意味では良かったのかなという気がします。

編集部:その会社には、どのくらい勤められたのですか。

内藤さん:13年ほどです。その後、30代半ばで外資系の生命保険会社に転職して、2年間、営業を突き詰めました。成果を徹底的に追い求める世界で学ぶことは多かったのですが、そこで気づいたのは、自分が本当にやりたいのは、目の前の相手や地元の役に立つことなんだ、ということでした。その後はオフィス家具・事務用品のメーカーに移って、部長などの管理職も経験させてもらいました。

編集部:営業の最前線を突き詰めたからこそ、ご自身の軸が見えてきたのですね。

仕事を終えてから練習し、また仕事に戻る。営業の最前線とグラウンドを行き来した東京での日々は、営業を突き詰めた先に、自分の軸は人や地元への貢献にあるという気づきを内藤さんに残した。

ラグビーの縁がつないだ、地元へのUターン

編集部:山梨に戻ろうと思われたのは、どのようなきっかけだったのですか。

内藤さん:もともと、いつかは山梨に帰りたいという気持ちがあったんです。地元ですから。東京での生活も仕事も思い切りやりましたし、そろそろ地元に戻って暮らしたいという思いが強くなっていました。

編集部:Uターンにあたって、仕事はどのように見つけられたのですか。

内藤さん:ここでもラグビーの縁なんです。日川高校ラグビー部のOBで、日本代表としても活躍された先輩に相談したところ、甲府市に本社を置くコンクリート2次製品メーカーを紹介してくれました。そこに営業として入って、1年半勤めました。

編集部:実際に暮らしてみて、地元の印象はいかがでしたか。

内藤さん:正直、驚きました。昔にぎわっていた商店街はシャッターが閉まって、通っていた駄菓子屋さんのような個人商店もほとんどなくなっていて。まちの姿が大きく変わっていたんです。

高校の先輩を頼って実現したUターン。目にしたのは、記憶の中のまちとは違う風景だった。この実感が、内藤さんを次の決断へと押し出していく。

旧敷島町のために。地元の声に応える決意

編集部:そして地元での政治活動を始める決意をされました。何が内藤さんを動かしたのでしょうか。

内藤さん:地域には、生まれ育った旧敷島町の声をもっと届けたいという思いを持っている方がたくさんいます。そうした声に触れるうちに、自分がやるべきなんじゃないかと考えるようになりました。もともと地元に貢献したいという思いは、昔からずっと持っていましたから。

編集部:ご家族の影響もあったのでしょうか。

内藤さん:父が市議会議員を6期務めていました。地域のために働く姿を近くで見てきたことは、大きかったと思います。それから、地元の同級生たちが「いいじゃないか」と背中を押してくれたことも力になりました。同窓会の幹事をやってきたこともあって、地元のつながりはずっと大事にしてきたんです。

編集部:2026年6月には、会社を退職されています。退路を断っての決断ですね。

内藤さん:6月20日付で退職しました。私はずっと地元にいたわけではないので、早くから活動を始めて、一人でも多くの方に会わなければいけません。中途半端にやったら意味がないぞ、と周りからも言われまして。仕事を続けながらの活動はやはり難しいので、専念する道を選びました。

守るために、強くする。掲げるのは「4つの目標」

編集部:政策については、どのようなことを考えていらっしゃいますか。

内藤さん:「内藤きみひろが目指す 未来の甲斐市、未来の山梨。」として、「強い経済」「子ども・教育」「医療・福祉」「地域・防災」の4つの目標を掲げています。

編集部:ひとつずつ伺います。まず、「強い経済」とは。

内藤さん:守るために、強くする、ということです。地域産業の活性化、企業誘致、雇用創出を進めて、若者が地元で希望を持って働き、暮らし続けられる環境をつくります。

編集部:2つ目は「子ども・教育」です。

内藤さん:未来を育てる、です。安心して子育てができて、子どもたちが夢を描ける教育環境を充実させます。

編集部:「医療・福祉」では何を目指しますか。

内藤さん:安心して暮らせる地域を守る、ということです。必要な医療や福祉をきちんと受けられる地域をつくります。

編集部:最後の「地域・防災」はいかがですか。

内藤さん:町ごと支える、です。地域コミュニティを守り、防災・減災を強化して、誰も取り残さない地域づくりを進めます。

経済、教育、医療・福祉、地域・防災。4つの目標には「守る」「支える」という言葉が繰り返し現れる。変わってしまった地元の姿を知る人の政策として、筋が通っている。

編集部:最後に、これからの活動にかける思いをお聞かせください。

内藤さん:まずは目の前の活動に全力を尽くすこと。そして地元に貢献していくこと。周りからはいろいろ言っていただきますが、今はそれ以外のことは考えていません。

プロフィール:内藤 きみひろ(ないとう・きみひろ)

山梨県甲斐市(旧敷島町)出身・在住。51歳。小学3年から中学3年までサッカーに打ち込み、その体格を見込まれて高校ラグビーの名門・日川高校ラグビー部にスカウトされる。在学中に全国ベスト4を経験し、高校日本代表にも選出された。法政大学ラグビー部を経て大手電機メーカーに就職し、営業として約13年勤務。社会人ラグビーでも33歳まで現役を続けた。その後、外資系生命保険会社、オフィス家具・事務用品メーカーで営業・管理職の経験を重ね、地元へのUターンを決断。甲府市に本社を置くコンクリート2次製品メーカーで1年半営業を務めたのち、2026年6月に退職。現在は地元・甲斐市を拠点に活動している。合言葉は「甲斐市はワンチーム」。

編集後記

取材を通して印象に残ったのは、内藤さんの人生の節目に、いつもラグビーの縁があったことだ。監督が2度家まで足を運んでくれた高校時代。33歳まで続けた社会人ラグビー。そしてUターンのきっかけをくれたのも、日川高校の先輩だった。人とのつながりに導かれてきた人が、今度は自分が地域のつながりをつくる側に回ろうとしている。

「甲斐市はワンチーム」という合言葉に、その半生が重なって見える。ひとりで抜け出すのではなく、パスをつなぎ、スクラムを組んで前に進む。ラグビーとともに歩んできた51歳の挑戦を、これからも追いかけたい。