途絶えかけた先祖代々の茶園を復活・拡大させ、町議に。浅田賢茂さんが描く、AI時代だからこそ「自然の循環をリアルに学べる教育」で子育て世帯を呼び込むまちづくり|京都府宇治田原町

今回は、京都府宇治田原町の浅田賢茂(あさだ・たかしげ)さんに話を聞いた。

宇治田原町は、江戸時代に永谷宗円が煎茶の製法を生み出した「日本緑茶発祥の地」として知られる。浅田さんはこの町で先祖代々続く浅田茶園の番頭・二十五代目 浅田茂右衛門として、廃業寸前だった家業の茶園を30歳で再興した。そして2024年11月、宇治田原町議会議員選挙で初当選。茶農家と議員、二つの立場から地元と向き合っている。

「子どもの頃は、遊びに事欠かなかった」。宇治田原での日々をそう懐かしむ浅田さんは、なぜ約10年の会社員生活を経て茶園を継ぎ、町政にまで踏み出したのか。その歩みを追った。

プールに祭り、茶刈りも。遊びに事欠かなかった少年時代

インタビューに答える浅田賢茂さん

編集部:まずは生い立ちからお聞かせください。ご出身は宇治田原町ですか。

浅田さん:はい、生まれも育ちも宇治田原です。1992年1月生まれです。

編集部:宇治田原では、どのような子ども時代を過ごされたのでしょうか。

浅田さん:遊びには事欠かなかったですね。夏は住民プールです。友達と連れ立って通うのが本当に楽しみでした。祭りをはじめ昔ながらの行事も残っていますし、うちには家族の行事として茶刈りもある。この町ならではの楽しみのなかで育ちました。

電車の通らない町で、遊びと行事を楽しみ尽くした子ども時代。この原体験が、のちに浅田さんが掲げる「今の子どもが、この町で子育てをしたいと思える町に」という言葉の土台になっていく。

建設機械への憧れから、約10年の会社員生活へ

編集部:高校は、町の外へ通われたのですね。

浅田さん:京都市内の高校です。電車の通らない町から市内へ通う日々のなかで、外の世界にも自然と目が向くようになりました。同級生もみんな、進学や就職を機に町の外へ活動の場を広げていく時期でした。

編集部:卒業後の進路は、どのように選ばれたのでしょうか。

浅田さん:建設系を専攻していて、子どもの頃から車や建設機械が好きだったんです。最初は三重の会社に就職して、研修を経て配属されました。そこからの約10年は、運ぶ仕事が中心です。車に始まり、荷物、人、最後は馬まで(笑)。複数のドライバー職を経験しました。後半は、仕入れからお客さんとのやり取りまで一人で担う仕事も任せてもらえるようになって。

編集部:仕事を一通り自分で回せるようになった。会社員としては充実していた時期に思えます。

浅田さん:会社員としての毎日は楽しかったですよ。ただ、一人前に仕事ができるようになった頃から、次は自分の手で経営に挑戦してみたい、という思いがどんどん膨らんでいきました。

編集部:退職に踏み切ったのは、どのようなタイミングだったのでしょうか。

浅田さん:三人目の子どもが生まれて、半年ほど経った頃です。会社員という立場のままでは、自分のやりたいことには限界があると感じていました。家族も増えて、これからの働き方を考える節目でもあった。それで思い切って、次の一歩を踏み出すことにしました。

廃業寸前だった、二十五代の茶園

浅田さんが再興した茶畑

編集部:家業の浅田茶園は、当時どのような状態だったのですか。

浅田さん:ほぼやめかけていました。祖父の代までは今の3倍、4倍の畑をやっていたんですが、借りていた畑を手放して規模を小さくしていって。ちょうど、山あいのうねうねした茶畑を平らに造成し直す話が持ち上がった時期に、祖父も高齢でしたから、そこに乗らずに撤退したんです。残っていたのは、家族の行事としての茶刈りと、個人のお客さんが数件だけでした。

編集部:その茶園を、ご自身で継ごうと決めたのはなぜでしょうか。

浅田さん:正直に言うと、「茶はやらん」とずっと思っていたんです(笑)。草抜きは大変やし、虫も嫌いやし、エアコンの効いた場所にいたい。ただ、小さい頃から飲んできたうちのお茶は、本当においしいんです。この味を残したいという気持ちと、「自分で経営がしたい」という気持ちが、30歳のときにちょうど一致した。お茶の仕事が好きで選んだというより、この二つが重なった結果です。

大きな箱物や設備投資を抱える商売はしたくない。会社員時代からそう考えていた浅田さんにとって、家に残っていた茶園は、身の丈で始められる経営の答えでもあった。

編集部:再興の一年目から、お茶はできましたか。

浅田さん:収穫はできましたし、物にはなりました。畑に肥料も何も入っていない状態でしたから品質は心配だったんですが、飲んでみると、思った以上の出来だったんです。ああ、この畑はちゃんと生きているんやなと。あの一杯の手応えが、続けていく自信になりました。

生産から小売まで、一貫して手がける

お茶を前に語る浅田さん

編集部:現在の茶園経営について教えてください。宇治田原は大きな製茶問屋も構える茶どころです。その中で、浅田茶園はどのような立ち位置なのでしょうか。

浅田さん:広さが全然違いますから、量では最初から勝負しません。うちは生産から小売まで一貫してやる。これは祖父がもともと言っていたスタイルなんです。摘んだ葉の荒茶加工は友人の工場に頼んでいますが、仕上がりまでずっと立ち会います。「今日は雨の後で水分が多いから、もう少し飛ばそうか」というように、狙う味に持っていく。袋詰めも、パッケージ選びも自分でやります。

編集部:お客さんとのつながりは、どのように広げてこられたのですか。

浅田さん:飛び込みの営業はしません。いろんな場所で人と話して、「お茶をやっています」と伝えるところからです。面白いのは、通っていた歯医者さんですね。治療中に「わざわざ宇治田原から来られたんですか」という雑談から広がって、お茶を使っていただけるようになりました。そのご縁で保育所でも飲んでもらえるようになって、茶摘み体験にも来ていただいています。

編集部:注文は100グラムからでも受けるそうですね。小さなつながりを大切にする姿勢が伝わってきます。

浅田さん:量より、うちの茶を気に入って続けてくださる方が一番ありがたいんです。お客さんと直接話せるのも楽しいですし。それに最近は、若い世代にもお茶好きな方が案外多いことに気づきました。コーヒーのように、こだわって選んでくれる方がいるんです。

取材の後半、浅田さんは自らの茶畑を案内してくれた。本能寺の変の後、徳川家康が三河へ逃げ帰った「伊賀越え」の道が近くを通り、すぐそばには瀬田川へ注ぐ川と宇治川へ注ぐ川を分ける地形がある。宇治田原は古くから人と物が行き交う交通の要所であり、その通り道に暮らしと茶園が育まれてきた。電車は通らずとも、京都市からも大津からも、信楽方面からも車で入りやすい。この土地の条件を、浅田さんは「消滅していく場所ではない」と言い切る。

「家康・伊賀越えの道」の看板の前で語る浅田さん

「みんな出ていく」への、逆転の発想

編集部:茶農家として歩み始めた浅田さんが、2024年11月の町議会議員選挙に立候補されました。何がきっかけだったのでしょうか。

浅田さん:子どもが少なくなっていることです。僕らの世代はみんな町を出ていく。理由を聞けば、だいたい「不便やから」。なかには「子どものことを考えて」と街へ出る人もいます。でも私は、そこに矛盾を感じたんです。子どものことを考えたら、むしろ田舎の方がいいと思うんですよ。自然のなかで、伸び伸びと育てられる。ネックがあるとすれば、高校になると通学に時間がかかることくらいで、それなら最初から街に出ておこう、となってしまう。

編集部:ご自身にも、町を出るという選択肢はあったのでしょうか。

浅田さん:考えたことはあります。ただ、代々この土地にいるので、自分の拠点をよそへ移すことにはすごく違和感があった。それに私自身、この町でいい思い出をもらって育ちましたから。ここに家を建てて、残ると決めました。

編集部:若い頃に町の外の世界も見てきたご自身だからこそ、出ていく側の気持ちも分かる。その上で、どう考えたのですか。

浅田さん:不便さそのものは、すぐには変えられません。そこで発想を変えました。子どもたちに、この町でしかできない体験をたくさんさせてやる。そうすれば、楽しい思い出は必ずできるんです。「今の子どもが、大人になったときにこの町で子育てをしたいと思ってもらえれば、それでいいんじゃないか」。これが私のスローガンです。一度は外に出て、街の良さを知ればいい。街にも地元にも、いいところと悪いところが両方あります。それを知った上で、子育ての拠点を選ぶときに「田原がいいな」と思ってもらえる町にしたいんです。

編集部:選挙は、定数12に対して過去最多の17人が立候補する構図になりました。町議選は地縁の票が中心と言われる中で、政策を前面に出して戦われたのですね。

浅田さん:町議選は地域票、親戚票がほとんどの世界です。その中で私は、子育てと教育の政策を訴えました。子育て世帯はもちろん、「若い者の言うことはもっともや」と応援してくださるご高齢の方も多かった。ありがたかったですね。

ユニフォームの袖に刺繍された「One for all, All for one」の言葉

新しくつくるのではなく、今あるものを開く

編集部:議員1年目から、一般質問に立たれています。どのような課題意識で臨まれたのでしょうか。

浅田さん:たとえば住民プールです。閉鎖と取り壊しが決まったんです。冒頭でお話しした通り、私にとって夏の住民プールは大切な思い出です。あの体験が子どもたちから消えるのは寂しい。そこで提案したのが、町内に2校ある小学校のプールを夏休みに地域へ開放することでした。新しく施設をつくらなくても、今あるものを使えばいい。

編集部:提案に対して、行政はどう動いたのでしょうか。

浅田さん:教育委員会が動いてくれて、まずは試験的に1日、在校生を対象に開放が実現しました。低学年は保護者の同伴付きです。ゴールは誰もが行ける形ですが、安全管理の課題もあるので一歩ずつです。これからの時代、学校が担ってきたことを地域が支える場面は増えていきます。行政がやってくれるのを待つのではなく、住民や議会が行政を動かしにいくくらいでないと、と思っています。

獣害から始める、「地元を知る」教育

編集部:今後、力を入れていきたい政策は何でしょうか。

浅田さん:特色のある教育です。人口減少は続きますが、だからこそ「宇治田原の教育を受けさせたい」と思って移り住んでくれる子育て世代を増やしたい。自然が豊かで、京都市内にも車で30分ほどで出られる。そこに教育の魅力が加われば、家を建てる場所として選んでもらえるはずです。

編集部:「特色のある教育」とは、具体的にはどのようなものを構想されているのですか。

浅田さん:たとえば獣害です。宇治田原でも鹿や猿が里に降りてきています。「出てきたから駆除する」ではなくて、そもそもなぜ降りてくるのか、その理屈をまず学ぶ。私自身、今も勉強しているところなんですが、山と人の暮らしの関係をさかのぼると、見えてくるものがあるんです。

編集部:かつての暮らしは、山とどのようにつながっていたのでしょうか。

浅田さん:昔は火を起こすために、山の木を採っていました。一説には、あれが山の手入れの役割も果たしていたそうです。井戸で湧き水を汲んでいたから、山の水はうまく外へ出ていた。今は井戸を使う家もほとんどありません。木は刈られず、山は水を蓄えすぎる。地面に染み込む力も落ちて、土砂崩れの一因になるとも言われています。そして植えられた針葉樹ばかりの山には、動物の食べものが少ない。だから獣たちは、山が変わった分だけ里へ降りてくる。数が増えたというより、降りてきているだけなんです。そう考えると、人里に出てきた獣をただ駆除しても解決にはなりません。山と人の関係を、どう結び直すかという話なんです。

編集部:里に降りてくる獣は、山と人の関係が変わったことを映す鏡でもある。地域の課題そのものが、生きた教材になるのですね。

浅田さん:そうなんです。遠い土地の事例を教科書で学ぶより、自分の町を教材にした方が、実感を持って学べる。ここの子は、車の中から「あ、イタチや」と分かるんですよ。イタチとハクビシンとタヌキの見分けが、暮らしの中で自然と身についている。

編集部:こうした学びは、テストの点数のような形では測りにくいものです。それでも、これからの時代にこそ必要だと考えておられるのですね。

浅田さん:学力ももちろん大事ですが、正直、これからはAIが補ってくれる部分が大きいと思っています。AIで考えることはできても、実際に動くのは人間です。だからこそ、ここでしかできない体験に価値が出てくる。自然の循環を自分の町で学べることは、AI時代にはむしろ強みになると思うんです。そういう子育てができる町なら、選んでもらえるはずです。

編集部:地元の自然や成り立ちを深く知ることが、そのまま子どもたちの土台になっていく。

浅田さん:地元をよく知っている子どもは、地元愛を持った子どもに育つと思っています。シビックプライドですね。もちろん一度は外に出たらいい。外の世界を見て、それでも親になったときに「田原で子育てしたい」と帰ってきてくれたら。そうやって一周回ってつながっていくのが理想です。

茶畑で笑顔を見せる浅田さん

議員としての浅田さんは、議会の広報にも手を入れている。副委員長を務める議会だよりでは、表紙写真の刷新から始めた。年明けの号は成人式の集合写真、次の号は卒業式、春はお茶、夏は祭り。委員には「縦位置でも撮る」「引きで撮る」といった撮り方の基本から共有しているという。まず写真で手に取ってもらえなければ、中身は読んでもらえない。この伝え方への感度は、茶園でパッケージを自分で選ぶ姿勢と地続きだ。

プロフィール:浅田 賢茂(あさだ・たかしげ)

京都府宇治田原町生まれ、同町在住。1992年1月生まれ。京都市内の高校を卒業後、複数のドライバー職を経験しながら約10年の会社員生活を送る。退職後の30歳で、廃業寸前だった家業の浅田茶園を再興し、番頭・二十五代目 浅田茂右衛門を継ぐ。生産から小売までを一貫して手がける。2024年11月、宇治田原町議会議員選挙で初当選(現在1期目)。子育て・教育分野を中心に活動している。
Instagram:@asada_chaen

編集後記

浅田さんの話には、「選び直す」という軸が一本通っている。遊びに事欠かなかった生まれ育ちの町を、外の世界を知った上で、暮らしと子育ての拠点としてあらためて選んだ。茶園では、大産地と同じ土俵に乗らず、小さい頃から飲んできた家の味を残すために生産から小売までの一貫にこだわる。町政では、施設を新しくつくるのではなく、学校のプールのように今あるものを地域へ開くことを提案する。手元にあるものの価値を見極めて磨くという思考が、暮らしにも商いにも政策にも貫かれている。

印象に残ったのは、獣害の話だ。目の前に現れた獣を駆除するかどうかではなく、薪や井戸とともにあった山と人の関係までさかのぼって考え、それを子どもたちの学びに変えようとする。地元を深く知った子どもが、外の世界を見て、親になったときにこの町へ帰ってくる。「今の子どもが、この町で子育てをしたいと思ってもらえれば、それでいい」という言葉の成果が出るのは、20年後、30年後だ。選挙のサイクルとは噛み合わない長さの時間軸を1期目の議員が堂々と掲げられるのは、二十五代続く茶園を預かる人だからこそ持てる時間感覚なのだと思う。

茶畑の脇には家康が駆けた伊賀越えの道が通り、水は瀬田川と宇治川に分かれて流れていく。人と物の通り道であり続けたこの町で、浅田さんは子どもたちが「帰ってくる道」をつくろうとしている。一杯の茶と同じで、まちも仕込みが味を決める。その挑戦の行方を、これからも見届けたい。